「私家版・日本おもちゃ名作選」
おもちゃ作家・杉山亮



第2回 「かさね箱」

旅先でみやげもの屋をひやかすのは、趣味のひとつです。
テントや車の中で寝る貧乏旅行も自由で好きですが、ときに温泉宿に泊まってひと風呂あびて、 どてらに下駄ばきで近所のみやげもの屋街をそぞろ歩きするなどという段になると、旅情は安直に盛り上がり、(ああ、ぼくは今、正しく日本の物見遊山をしている。 ちゃんと景色の点景としてはまっているだろうか) と、楽しい心配をせずにはいられません。
でも、実際に買うことはほとんどありません。
軽井沢で売っているものも、北海道で売っているものも、ラベルが違うだけでなかみは同じということはよくあるし、 やたら民 品を装っただけのものには食指が動かないのです。

それでも、時には掘りだしものにあたります。
これは、木曽の妻籠のみやげもの屋で見つけました。和紙細工 の小物を集めたコーナーでした。

箱をあけると箱が出てきます。
それをあけると、また、箱が出てきます。

そんなふうにあける動作をくりかえすうちに、箱は次第に小さくなり、最後の10こめの小箱はあまりに小さくて、もう、なにも入れられません。

箱というのはなんのためにあるかといえば、ものを入れるためにあるわけでしょう。
その目的を無視して、ふたをあけたりしめたりする機能の方をクローズアップしたことで、 これはおしゃれなおもちゃになったといえます。(ぼくが勝手に、これをそういうおもちゃということにしているのかもしれませんが)

あけてもあけても箱というパターンは、まず例外なく、子どもの笑顔をうみます。 子どもとて、みっつめの箱が出てきたあたりで、この箱の意図に気づきはします。 でも、だからといって、あけるのをとちゅうでやめることは絶対にありません。
猿のらっきょむきよろしく、ゲラゲラ笑いながら、最後のひとつまでふたをあけつづけることになります。
猿と違うのは、猿の方は大まじめなのに対して、人間の方は(えらいものにつかまっちゃったな)という感じで、 重ね箱のナンセンスぶりとそれに気持ちよく翻弄されている自分を楽しんでいる点です。
で、あけたりしめたりをくりかえしたあと、今度は第二段階の遊びになります。
箱を高く積んでみたり、1列に並べてみたり、いろいろいじくりだすのです。



端的にいって、子どもは同じものがたくさんあるのが好きです。
なぜ、そうなのかはわかりません。ただ「群れること」「群れているもの」というのは、どこかで子どもを安心させるのではないかと、漠然とは思います。太古の昔、それこそ人の先祖がマンモスと戦っていた頃の、「群れていれば安全」という感覚が、時を越えて、ぼくたちの頭の中に本能として受けつがれているのかもしれません。
「なにを唐突に」と、いわれそうですが、たとえば人が年をとって、わけもなく故郷に足が向くことがあります。
損得抜きのそういう行為は、妙にうがった解説より、帰巣本能という動物学的なことばで説明してもらった方が、自然で腑に落ちます。
「群れて安心」も、そういうもののような気がするのです。

積み木のような同じ大きさの立方体の群れは、左右対称や幾何学的な図形ができやすく、運動会のマスゲームや兵隊の行進を連想させ、ひとつひとつはどうでもいい、全体としての美が生まれます。

一方、重ね箱のような同形異大の群れで、すぐ連想させられるのは家族でしょう。一番大きいのがおとうさん、次はおかあさん、それからおにいちゃんにぼくに妹という具合に、子どもは箱を見立てて並べます。
どんなに自己中心的な子でも、自分を一番大きいのにはしません。
これは、単に事実を描写しているという以上に、自分がもっと大きいものに保護されているという感覚が心地よいのだと思います。
同時に、自分が小さく愛らしい存在であることに、うっとりしているのかもしれませんが。

そして、しまうのが、遊びの最後の段階です。
かたづけていくうちに、あんなにたくさんあった箱が、ひとつひとつ中におさまって姿を消し、最後におとうさん役の箱が、机の上にひとつだけ平然と残ることになります。
エスプリがきいてるね、と、いうしかありません。



第1回 「軍配」
第2回 「かさね箱」
第3回 「プラレール 」
第4回 「ミラクルボウル」
第5回 「がいこつのカタカタ」
第6回 「クルクルパッチン」
第7回 「花はじき遊び」
第8回 「星ッコロ」

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